スーパー・スネークの伝説
「彼(シェルビー)が触れたすべてのものが、伝説になる」
– ロサンゼルス、ピーターセン自動車博物館館長、レスリー・ケンダル
「当時、公道を合法的に走行できるマシンとしては最速だった。フェラーリ、ランボルギーニ、その他どのマシンよりも速かった」
– カーコレクター、リチャード・エリス
2019年、1967 GT500シェルビー・スーパ・スネークは歴史に名を刻んだ。それも初めてのことではない。キシミーで開催されたミカムオークションにて220万ドルで落札され、世界一高価なマスタングとなった。6年前の2013年の落札価格130万ドルという自己最高記録を塗り変える金額だった。
1967 GT500シェルビー・スーパ・スネークは、たった一つの理由により、コレクターの夢、究極のマスタングとなった。世界で1台しか存在しないマシンなのだ。
2000年の伝説のカルト映画『60セカンズ』でニコラス・ケイジと共演した、コレクション価値の高さの点ではかろうじて次点ともいえる1967フォード・マスタングエレノアでさえ、この栄誉には預かれない – 映画に使われたのは、3台あるうちの1台だ。
このようにスーパー・スネークが孤高の星となったのは、設計、独創性などの複数の要素が重なったためであり、そして数々の伝説がそうであるように、ちょっとした幸運も味方した結果だった。
キャロル・シェルビーはさまざまな肩書を持っていた。元養鶏家、元レースドライバーで、フォード・マスタングを高性能車に改造したシェルビー・アメリカンの社長、アメリカ西海岸地域のグッドイヤータイヤの販売代理店代表。この販売代理店の仕事が最終的にはスーパー・スネーク誕生につながった。グッドイヤーは新しいタイヤ「サンダーボルト」をプロモーションする方法を模索していた。サンダーボルトそのものは特別なものではなかったと、マスタングのコレクターであり、以前スーパー・スネークを所有していたことのあるリチャード・エリスは回想している「サンダーボルトは、60年代に、いわば、平凡なファミリーカー向けに作られたタイヤで、そのため、どこでも再生産は行われず、35年間、誰もその消息を聞いたこともなかった」。しかし、この無難なタイヤのプロモーションがシェルビーに託されたことにより、スーパー・スネークが生まれる。
1967 GT500はよく売れていた。より小型のエンジンを搭載したGT350の売上を上回り、その人気から、プロモーションに使用するのに理想的といえた。しかし、シェルビー・アメリカンには別のプランがあった。通常のGT500でサンダーボルトをテストする代わりに、誰も見たことのない超高性能のGT500を開発してそれに使えばどうなるか?
シェルビーの元チーフエンジニア、フレッド・グッデルは次のように回想する「キャロルは何事も風変りな流儀でやる男だった。ある時、彼は私に電話してきて言った『君も知っているように、私はグッドイヤータイヤのカリフォルニア州の販売代理店だろ。そのグッドイヤーから「サンダーボルト」という新しいタイヤの宣伝を依頼された。そこで、427レーシングエンジンを搭載した特別なGT500をつくってほしいんだ』」
GT500スーパーチャージャー
グッデルはシャーシ番号00544の白のGT500を選んだ。「それに軽量の427レーシングエンジン、特別仕様の後輪駆動軸とトランスミッションを搭載して組み立てなおし、もちろん、サンダーボルトタイヤを履かせた!」
こうして、スーパー・スネークが誕生した。
当時、メル・バーンズ・フォードで抜群の営業成績を誇っていたシェルビー・アメリカンの元営業部長、ドン・マケインは、この時のことをこう振り返る「当時、あのマシンこそ、すべての427の母なる存在だった。シリンダーヘッドとウォーターポンプはアルミニウム製、鍛造クランク、ル・マン仕様のロッド……基本的に、エンジン内部のパーツすべてが、ル・マン24時間レースでの走行に耐える6,000rpmを維持できるよう、つくられていた」
ル・マン24時間レース向けに設計されたエンジンに加え、前年にル・マン24時間レースで勝利を手にしたGT40 MK IIに採用されていた「蛇の束」のような排気システムを備え、これまたル・マン仕様の3本の青いストライプをまとい完成したスーパー・スネークは、テキサス州サン・アンジェロに位置するグッドイヤーの性能試験場に出向き、その威力を発揮した。
シェルビーはTime誌とLife誌の記者の面前で慣らし運転を行い、時速約274キロというタイムを叩きだした。しかし、テスト自体は、グッデルの手に委ねられた。「それから、彼(キャロル)が戻ってきてヘルメットを私に手渡して言った『これからワシントンに行かなきゃならない。テストドライブは君がやってくれ』。私は車に乗り込み、800kmの距離をテストドライブした。その間の平均速度は時速228キロだった」
テストドライブは成功した。窒素が目いっぱい注入され、剛性と耐発熱性が高められた「平凡な」薄いホワイトリボンタイヤは、猛スピードに耐えただけでなく、トレッドが97%も残っていた。これは驚くべき結果で、エリスによると、スーパー・スネークは「履いていたタイヤの技術に対し、あまりにも速すぎた」
オリジナルのサンダーボルトタイヤで復元されたスーパー・スネーク。写真提供:デビッド・ニューハート/ミカム・オークション
皮肉なことに、タイヤテストの成功とスーパー・スネークの性能は、市場性の面でいって、裏目に出た。サンダーボルトのテストは、単にタイヤのテストというだけでなく、427エンジンを積んだGT500の製品ラインを生み出すという狙いもあった。ドン・マケインは説明する「シェルビー・アメリカンは、市場調査のために、スーパー・スネークをつくった。廃版となったGT500クラスの428マスタングの代わりに、427マスタングが売れるか? ということだ」
答えは「ノー」。
「50台生産する計画だったが、ル・マン仕様のエンジンを積むつもりはなかった。エンジンのコストがあまりにも高すぎた。7,995ドルも出すなら、市場には他にも魅力的な選択肢があった」
そのため、スーパー・スネークはたった1台限りのマシンとなり、メル・バーンズ・フォードのショールームに展示されていたが、やがて2人の航空機パイロットに5,000ドルで売却された。パイロットたちは週末にこのマシンでドラッグレースに出場した。
その後、スーパー・スネークは何度かオーナーを変え、やがてリチャード・エリスの手に渡り「適切な修復」が行われた。エリスは1976年製の消火器、そして無論、サンダーボルトタイヤを含む「タイヤテスト当時のオリジナルのパーツを探し求めた」。サンダーボルトタイヤについては、「見つかるとは夢にも思っていなかった」が。エリスは続ける「どこでも再生産はしておらず、そうする理由もなかった。時代の主流はステーションワゴンになっていた」。だから、東海岸のタイヤ倉庫で働く知り合いが、何百ものタイヤの山からサンダーボルトのラベルを見つけた出した時には「胸が高鳴った」。合計10個のサンダーボルトタイヤが見つかり、ついにエリスは記念すべき1967年3月のあの日そのまま状態にスーパー・スネークを復元することができた。
ドン・マケインは後に回想している。
「……この車が、今のようなステータスを手に入れると、当時分かっていれば……自動車界でも、とてつもない代物じゃないか」
とてつもない代物……まさに、その通りだ。